展示資料

弥生時代

四区袈裟襷文銅鐸

よんくけさだすきもんどうたく
  • 時期:弥生時代中期
  • 所有:文化庁
  • その他:大きさ全高31.7cm、兵庫県指定文化財

 昭和35年(1960)、山崎町青木の山の斜面から農作業中(ブドウ畑の開墾中)に発見された銅鐸で、通称「青木銅鐸」と呼ばれています。銅鐸は人里離れた山中などから出土する例がよくみられますが、この銅鐸も意図的に人目につかない場所に埋納されたと考えられています。
 弥生時代中頃(約2000年前)のもので、表面(身)の4つに分けられた方形の区画が袈裟【注釈】に似た文様であることから、このような名前が付けられています。

【注釈】袈裟(けさ)…格子状の模様をしたお坊さんの法衣

鎌倉~安土桃山時代

岸田出土の古銭の写真

岸田出土の古銭

きしだしゅつどのこせん
  • 時期:16世紀初め
  • 所有:宍粟市
  • その他:重さ10貫(37.5キログラム)

 昭和35年(1960)、山崎町岸田の旧神河中学校前の地中(道路下)から発見されました。備前焼の壺の中にはおよそ10貫(37.5キログラム、約1万枚分)の古銭が収められており、そのほとんどが中国銭、いわゆる渡来銭でした。
 埋められた意図の詳細は不明ですが、中世には財産を火災や戦乱・盗難などから守るため、土の中に埋めて隠す習慣がありましたので、この壺も比較的浅い位置に埋められていたことから、掘り返す前提で埋められたが、何らかの理由でそのまま地中に残ったものと考えられています。
 宍粟市周辺では、昭和52年(1977)に姫路市安富町塩野でも約5万枚の古銭が発見されています。


木下勝俊判物の写真

木下勝俊判物

きのしたかつとしはんもつ
  • 時期:天正15年(1587)(推定)
  • 所有:山崎八幡神社
  • その他:宍粟市指定文化財(古文書)

 

 天正15年(1587)、龍野城主木下勝俊(豊臣秀吉の甥)は、宍粟郡の一部も治めることになり、山田・山崎村(現山崎町)に新たに町場をつくることを計画しました。その際、現地の責任者である「左京丞との(殿)、二郎左衛門との、甚三郎との」なる人物に命令を出したのがこの判物【注釈】です。
 江戸時代中期に宍粟で書かれた『播州宍粟郡守令交代記』には、それまで住民が散り散りに住んでいたものが、勝俊の命令によって初めてひと続きの町場が成立した、と記されています。戦国時代から江戸時代に移るなかで、山崎町がどのように誕生したのかを知るための貴重な史料です。

【注釈】判物(はんもつ)…将軍や大名などが下の者にあてて出した、本人の花押(かおう:当時のサイン)を据えた手紙のこと


池田輝政判物の写真

池田輝政判物

いけだてるまさはんもつ
  • 時期:慶長5年(1600)
  • 所有:山崎八幡神社
  • その他:宍粟市指定文化財(古文書)

 慶長5年(1600)、播磨国の領主となった池田輝政(照政)が出した判物で、当時、宍粟郡は姫路城主池田輝政の所領の一部【注釈】でした。
 内容は、木下勝俊によって開かれ新町となった「山田山崎町中」での市日(市を開く日)を定めたもので、市は月に六度というペースで定期的に開かれたことが分かります(六斎市)。その他にも、押し売りや押し買い、郷質・所質(差し押さえ行為)の禁止、税金の免除などを定めています。
 木下勝俊判物と合わせて山崎の成り立ちを知ることができる史料であり、やがて宍粟藩3万8千石の中心地となる山崎城下町の初期の姿も窺い知ることができます。

【注釈】当時、輝政自身は姫路城におり、代官(領主の代理人)の中村主殿助正勝が山崎で政務を行っていたと考えられます。

江戸時代

山崎闇斎坐像の写真

山崎闇斎坐像

やまざきあんさいざぞう
  • 時期:江戸時代中期
  • 所有:宍粟市
  • その他:宍粟市指定文化財(彫刻)

 山崎闇斎の肖像彫刻で、 江戸時代中期ごろの制作と推測されます。寄木造りで優れた造形がなされ、近代に修理を受けた跡がありますが、原状を損なっておらず、後に補われた部分もないため、制作当時の姿を鮮明に残しています。
 背中には江戸時代中期の古義学派(堀川学派)の学者、伊藤善韶の銘が記されており、一時は彼がこの像の所有者であったことが伺えます。善韶は闇斎の死後半世紀ほどの人物で、面識もなく学派も異なる闇斎の像をなぜ所有していたかは不明ですが、その背景を想像すると興味深いものがあります。また、像を収める箱には、明治・大正時代の政治家である渡邊千秋氏による箱書が残されています。
 この木像は昭和30年代前半、東京本郷の古書店で兵庫県出身の嘉治隆一氏によって偶然発見されました。嘉治氏は当時山崎町の人間と交流があり、像を購入し山崎へ寄贈しようと希望していましたがなかなか果たせずにいたそうです。ある時、嘉治氏が知人で小説家の吉川英治氏に像のことを話したところ、吉川氏が個人的に買い取り、昭和35年(1960)に山崎町に寄贈されることとなりました。このように、この像は非常に数奇な運命をたどり現在に伝わっているのです。


池田恒元寄進楽器・弓矢附納箱の写真

池田恒元寄進楽器・弓矢附納箱

いけだつねもときしんがっきゆみやつけたりおさめばこ
  • 時期:寛文8年(1668)
  • 所有:山崎八幡神社
  • その他:宍粟市指定文化財(工芸品)

 寛文8年(1668)に池田恒元により寄進(寄付) された楽器類です。寄進されたのは、篳篥・笛・箏・ 琵琶・陰陽弓などの儀礼用のものです。漆塗りにべっ甲、象牙細工、金箔張りなど、いずれも優れた工芸技術によって仕上げられ、江戸時代前期の工芸技術の意匠がよくあらわれています。
 箏と琵琶の収納箱の内側には池田家の代表的な家紋である「揚羽蝶文」を透かした金箔紙が貼られ、琵琶の撥には徳川家の象徴でもある「三つ葉葵の紋」が入れられています。葵の紋は徳川家以外では親藩(一族)など一部の有力大名にしか使用が許されておらず、これらのことから当時の池田家の待遇の高さ、また楽器製作への力の入れ様を窺い知ることができます。
 他に注目すべきは、寄進状に書かれた物品がそのまま一品も欠けることなく残っている点です。寄進状か物品のどちらかしか残っていない事例が多い中、伝来の経緯や詳細が明確に分かるという点は、全国的に見ても極めて少なく貴重な事例です。また、楽器製作者の名前が判明している点も特徴で、江戸時代初期の工芸・芸術を研究する上で貴重な情報となることが今後期待されます。

お問い合わせ先
教育部 社会教育文化財課
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