播磨国
しさわのこおり
地名 のはなし
家の庭で、高校生の孫娘が盆栽の手入れをしている祖父に話しかける。
孫娘「おじいちゃーん」
祖父「なんだい、アキ」
孫娘「宿題手伝って」
祖父「今の高校の勉強などわからんよ」
孫娘「宍粟の地名のいわれを調べる宿題が出たの。おじいちゃんくわしいでしょ? この本も図書館から借りてきたのよ」
祖父「ほう」
孫娘「はい、お茶どーぞ」
祖父「そうか…」
孫娘「 播磨国 風土記に出てくるのが最初よね? 宍禾 の 郡 の地名のおこりは」
祖父「そうじゃ、奈良時代にさかのぼる」
和銅六年(713年)
元明天皇が諸国に土地の名の由来、産物、地名、地形、伝承などを朝廷に報告するようにみことのりを出された
祖父「この報告書を『 解 』という。風土記はのちにつけられた名前なんじゃ。現存する風土記は5つだけ。 播磨 、 常陸 、 出雲 、 肥前 、 豊後 じゃ。最初からできなかったものもあるといわれておる。
中でも 播磨国 風土記は最古のもので、命じられてわずか2年足らずで完成したとか。作ったのは播磨国司 巨勢邑治 とその部下たちで、たいそう優秀で熱意があったといわれとる」
祖父「そもそも 宍禾 の 郡 が揖保の 郡 から分けて作られたのは、ナニワノナガラトヨサキノスメラミコト(孝徳天皇)の世のことじゃった。孝徳天皇と言えば 中大兄皇子 と 中臣鎌足 による大化改新で天皇となった人じゃ」
祖父「 宍禾 の 郡 が揖保の 郡 から独立したとき7つの里があった」
- 比治里
- 高家里
- 柏野里
- 安師里
- 石作里
- 雲箇里
- 御方里
神話時代にさかのぼり 播磨国 風土記を見てみよう!
祖父「 韓 より渡って来たアメノヒボコノミコトは 宇頭川 (揖保川)河口でアシハラノシコオノミコトに会う。ヒボコはシコオに自分の宿る所がほしいと告げた。シコオが海中を許すと、ヒボコは剣で海水をかきまぜそこに宿った。これは国を譲れという意味だった。
シコオはその勢いのさかんなのに驚き、急いで国を占拠しようと歩き…丘に登って食事をしたら米粒が口から落ちた。ゆえにそこを 粒丘 と名付けた。イイボノオカから揖保の名がついた」
孫娘「アメノヒボコノミコトって韓から日本列島に入って来たの?」
祖父「 新羅 の王子といわれているが、5世紀ごろ北九州から瀬戸内海に入った鉄の文化を持つ渡来人の集団だろう。風土記では 漢人 と呼んでいる。
アシハラノシコオは古事記や日本書紀では出雲のオオクニヌシノミコトのことじゃが… 播磨国 風土記ではこのアシハラノシコオとイワノオオカミ(伊和大神)との混同があった。同じ神様として書かれておる。オオクニヌシは国譲りをして出雲大社に隠退しているから外には出てこないんじゃがね」
孫娘「イワノオオカミは 播磨国 を作り固めた神様よね?」
祖父「そうじゃ、 播磨国 風土記だけに出てくる神様なんじゃ。これは在地の神のイワノオオカミを『 葦原 の中つ国』の代表的な神のオオクニヌシノミコトに 仮託 して活躍させたと解釈されている。
あるいは出雲の 八十神 (たくさんの神)のひとりで、オオクニヌシの兄と考えてもいいかの。
このシコオとヒボコの二神は揖保川をさかのぼって土地を占拠しようと争うことになる」
その間に 宍禾 の地名が名づけられていく…
イワノオオカミが山川谷尾の境を巡行したとき、舌を出した大鹿に出会った。
イワノオオカミは、矢は 彼 の舌にあるといった。
孫娘「『 鹿 に 会 う』(シシアウ)をもって 宍禾 と名づけた…」
祖父「そうじゃ。そこは矢田村といったそうじゃがその村の現存地はわからない。だけど『 宍 』は肉の意味、『 禾 』は穀物の意味なので、狩猟と農耕の土地をあらわした地名じゃな。『地名には好字をあてる』というのが風土記を作る目的のひとつだったから、その意にそっているのじゃよ」
祖父「イワノオオカミがあるところで『いいすか(食事)』をした。ゆえにそこを 須加 といったが、のちに名を改めて 安師 とした。そしてその土地のアナシヒメノカミに求婚した。だがヒメは固くことわった。イワノオオカミはいかり、石で川の源を塞いだ。だから 安師 川の特に鹿ヶ壺の少し下流は水が少ない」
孫娘「イワノオオカミはもてなかったの?」
祖父「いや、そんなことはない。オオカミの妻となったコノハナサクヤヒメノミコトはその姿が 美麗 かった。だからヒメのいたその土地を 雲箇 と言う。一宮町 閏賀 だろう」
孫娘「アシハラノシコオノミコトが国を占拠したとき、『この地は小さく狭く室の戸のようだ』と言った。ゆえに 表戸 と言う」
祖父「山崎町宇原・下宇原だろう。アメノヒボコノミコトが『川の音が甚だ高い』と言ったので 川音 村…今の川戸だな。シコオとヒボコの二神が谷を奪い合った。激しい戦いだった。ゆえに 奪谷 という。争いで形が曲がって 藤蔓 のようになった。今の一宮町染河内地区あるいは山崎断層のことを言ったともいわれている。二神が川でいななく馬に出会った…その川は菅野川だ。いななく馬は二神の戦いの暗示じゃな」
孫娘「 鹹水 (塩水)が出た所もあってそこを塩の村といったのね」
祖父「うん。その塩の村が今の 庄能 じゃそうな。牛馬が好んで飲んだらしい。山崎町 生谷 では今も鉱泉が湧き出るしな」
孫娘「草を敷いて神の座としたゆえに 敷草 という。沢には菅が生え鉄を生じ、狼、熊が住む」
祖父「敷草は千種町で、千草鉄はこの頃すでに生産されていたのじゃ。千種町では古代においてすでに製鉄が行われていたと考えられる。
アメノヒボコとイワノオオカミは国占めのため競争して川の上流をめざした。イワノオオカミが上流に着いたとき、すでにアメノヒボコが到着していた。イワノオオカミは不思議に思い…『 度 らざるに先に到りしかも』といった。ゆえにそこを 波加 村といった。それはイワノオオカミの勘違いだったじゃろう。そのころ上流にはすでに新しい製鉄技術を持つ大陸の技術者がいたんじゃ。それをヒボコの軍と間違ったのじゃろう」
祖父「二神は争って最後は高峰山( 黒土志尓嵩 )に着いた。そして争いに決着をつけるため、それぞれ 黒葛 三条を足につけ、投げた!」
祖父「これは古い占いでな、イワノオオカミのつづらの一条は但馬の 気多 の 郡 、一条は 夜夫 の 郡 、残りの一条はこの村に落ちた。ゆえにこの村をミカタという。ところがヒボコのつづらはみな但馬に落ちた。だからヒボコは但馬へ去り、但馬の 伊都志 の地を占めた。こうして二神の争いは占いによってかたがついた」
祖父「当時但馬はまだ大和政権の及ばない地域があって、渡来人が定着しやすかったと考えられる。アメノヒボコに象徴される北九州に来た渡来人たちは、日本海を東進して但馬に入りさらに播磨に進出したか…それとも瀬戸内海から播磨に上陸したか…。いずれにしても播磨在地の集団と渡来人との間で国の占有をめぐって争いが起きた」
祖父「播磨は川が多く土地が肥沃で気候温暖。播磨灘は水産物にめぐまれ魅力のある土地で古来新羅系渡来人の定着が多かった。二神の争いがまったくの架空の話か、それともふたつの集団の争いだったのか……。いずれにしても遠く古代の人々に想像をはせると、意外とたくさんのことがわかってくるものじゃ」
更新日:2020年01月29日