黒田官兵衛と「山崎の城」
官兵衛の居城「山崎の城」とは?
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」で、官兵衛の居城として「播磨山崎城」が登場しました。筑前黒田家の歴史書『黒田家譜』の天正8年(1580)の箇所には、羽柴秀吉により播磨・但馬が平定された後の官兵衛の動向に関して、次のように記述されています。
「孝高ハ元来幡州ノ国士にて、秀吉の謀臣たるによって、但馬にハつかハされず。幡州宍栗郡山崎の城に居らしむ。」
(黒田孝高はもともと播磨の出身で、秀吉の参謀であったため、但馬には派遣されなかった。播磨宍粟郡の山崎の城に居城した。)
この「山崎の城」は、江戸時代に築城された平城の「山崎城」(鹿沢城・山崎町鹿沢)ではなく、室町・戦国時代に築城された山城である「篠ノ丸城」(山崎町横須)ではないかと推定されています。
広瀬遠景図(写真左側の山が篠ノ丸城)
篠ノ丸城・主郭(本丸)石碑
【篠ノ丸城の概要】
篠ノ丸城(山崎町横須)は、山崎町中心部にそびえる標高324mの山上、通称「一本松」に築かれた山城です。近世の記録類では、赤松貞範の子・顕則により築城されたと伝えられており、室町期以降に守護代をつとめた赤松一族宇野氏の拠点「広瀬城」は、この城をさすものと考えられます。
篠ノ丸城は、天正8年(1580)5月、毛利方についていた宇野氏が羽柴秀吉によって滅ぼされた、いわゆる「長水合戦」の際に、本城の長水城(山崎町宇野・五十波)とともに落城したとされます。城址には方形の郭群・土塁・堀等の遺構が残りますが、石垣の使用は確認できず、しかもこれら郭群を通路が周回するという特異な縄張りを持っています。
篠ノ丸城・主郭(本丸)土塁発掘調査風景
【篠ノ丸城の調査】
黒田官兵衛の居城として注目を集めるようになった篠ノ丸城について、宍粟市教育委員会は平成25年度に航空レーザー測量と発掘調査を実施しました。
航空レーザー測量の結果、
- 城址(郭群)は南北250メートル、東西200メートルの尾根上に配置されていること
- 主郭(本丸)は南北50メートル、東西40メートルの規模を有し、播磨北西部では最大級を誇ること
- 主郭周囲に配された40あまりの方形郭群を通路が取り囲む特殊な構造を取ること
- 北西の傾斜面の3つの尾根に多数の畝状竪堀群が配されていること
などが分かり、城の規模や構造が一段と明確となりました。
さらに、これらの測量成果に基づいて、主郭周辺においてトレンチ調査(100平方メートル)を実施しましたが、建物遺構の検出には至りませんでした。主郭西南の堀幅は最大で約1.8メートル、表土下0.55メートルにて底面を検出し、土塁高は最大で約1.2メートル、地山に盛土されていますが、締まりがなく版築のような互層状になっていませんでした。
なお、主郭西側の郭の盛土層から16世紀代の京焼系の土師皿が1点出土し、郭の築造時期を推測する好資料となりました。
篠ノ丸城・航空レーザー測量赤色立体地図
官兵衛の居城はどこに?
今回の航空測量図や発掘調査の結果を総合すると、篠ノ丸城にはいわゆる織豊(しょくほう)系の城郭としての特徴が認められず、むしろ天正8年の宇野氏滅亡時の状態を伝えていると考えられます。
宇野構遺跡・石垣遺構
一方で、平成24年度に公益財団法人兵庫県まちづくり技術センターが調査した長水城大手の宇野構遺跡(山崎町宇野)からは、瓦葺建物を伴うと考えられる織豊期の大規模な石垣遺構が出土しています。このことは、宇野氏滅亡後も宇野構が地域の支配拠点として機能していたことを示唆しており、非常に興味深い調査結果といえます。
これらのことから、現時点では「山崎の城」の場所を特定するには至りませんが、今後の調査の進展により、いまだ謎の多い戦国末期の宍粟の歴史がひも解かれることが期待されます。
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更新日:2019年03月15日